知って得する!遊郭ガイド
遊郭の史跡ガイドでは、各県に存在する遊郭についてわかりやすく解説しています。ソープランドの起源である遊郭、ソープランドで遊ぶなら知っておいて損はないでしょう。
1分で金津遊郭!
金津遊郭はこうしてソープランドとなった!
金津遊郭は明治21年、厚見郡上加納村字金津に開かれた。後に柳ヶ瀬の西柳ヶ瀬に移転し、さらに太平洋戦争時に軍需工場を建設するため 岐阜市東中島付近に強制移転させられる。戦後は、手力特殊喫茶街と呼ばれるようになる。昭和25年に当時の国鉄岐阜駅南口の紡績工場跡地に 一斉移転。この時業者は60軒あり、場所取りはくじ引きの上決められた。この時1軒あたりの広さは63坪にきっちりとわけられた。現在でも その名残で各店の敷地面積がほぼ同じである。そして、赤線地帯を経て、ソープ街となったのが現在の金津園である。
A. お茶屋屋敷
将軍家の宿泊施設、お茶屋屋敷
お茶屋屋敷は江戸時代に五街道に設備された将軍家の宿泊施設で、 大名の宿泊または休憩施設として使われていた。慶長10年徳川家康に よって築かれた。家康は三回利用し、大阪夏の陣の後には徳川秀忠が 利用している。慶永5年に天領となってからは建物の大半が壊されて 慶永12年頃には内部の御殿のみが残されていた。現在のお茶屋敷跡の 牡丹園は個人宅などもあり、立ち入り禁止の部分のもあるので散策には 注意が必要である。
お茶屋屋敷跡は家康が造営された将軍専用休泊施設で現存する唯一の施設。 4月、5月にはボタン園として解放されているので、気になる人はその時期に訪れてみるといいだろう。
1:入り口
2:牡丹園
3:井戸跡
B. 美濃国分寺
戦乱で焼失する、美濃国分寺
美濃国分寺は、天平13年聖武天皇に国分寺建立の詔が発せられた ことにより、建立された。仁和3年に火災で焼失し、本尊などは 運び出され、一時美濃国席田郡の定額尼寺に移転する。再び元の地に 再建されたが、南北朝時代の延元3年の青野原の戦いなどの戦乱で 焼失し、本尊も行方不明となる。本尊薬師如来像は、江戸時代初期、 真教上人が土中から見出したものと伝える。元和元年、旧美濃国分寺の 北東に、金銀山瑠璃光院美濃国分寺として再興された。美濃国分寺跡 には、大垣市歴史民俗資料館がある。
現在でも美濃国分寺跡には、美濃国分寺跡歴史公園という史跡公園がある。 更に、隣接する大垣市歴史民俗資料館には美濃国分寺跡の出土品が展示されているので 史跡公園に行った後にでもよってみてもいいだろう。
1:美濃国分寺跡
2:鐘突堂
3:山門
4:金銀山瑠璃光院国分寺
C. 加納城跡
加納藩主代々の居城、加納城
加納城は文安二年に土岐氏の守護代斎藤利永が革手城防備の要害として 築かれ、加納藩主代々の居城として用いられた。加納城は天文7年に 廃城となるが、慶長7年に岐阜城の代わりに築城された。現在の加納城跡 付近は公園として綺麗に整備され市民の憩いの場となっている。
加納城跡には公園があるので、遊びながら跡地の雰囲気を感じてみるといいだろう。
1:加納城の石垣