知って得する!遊郭ガイド
遊郭の史跡ガイドでは、各県に存在する遊郭についてわかりやすく解説しています。ソープランドの起源である遊郭、ソープランドで遊ぶなら知っておいて損はないでしょう。
1分で浮島遊郭!
兵営を誘致するために作られた遊郭
和歌山には明治の中頃まで遊郭が設置されていなかったが、日露戦争が終わって兵隊を招きよせるために遊郭が設置された。遊郭が作られたときは 三本杉遊郭と呼ばれていたが、明治45年に火災で焼失して、大正にはいって浮島に移転したことにより浮島遊郭と呼ばれるようになった。浮島遊郭が あった場所は、現在の浮島の森の北側の公園である。
A. 新宮城
長い築城の歴史をもつ城
新宮城は熊野川沿岸の田鶴原とも呼ばれるあたりの小高い丘である 丹鶴山に築かれた平山城である。丹鶴山に築かれたということと、 源為義と熊野別当の娘の子である丹鶴姫の住まいがあったとすること から別名丹鶴城ともよばれている。この城は、天正年間に、堀内氏に よって築城が計画されたが、関ヶ原の戦いで豊臣方についたために 築かれず代わって、1618年に紀州藩主浅野長晟の重臣である浅野忠吉 が、場所を熊野川の沿岸に移して再築した。浅野氏が備後三原の三原城 へ転封し、徳川頼宣が紀州藩主として入国して以後、水野重仲が城主 となり、水野氏の居城として明治維新を迎えたという歴史がある。 現在の新宮城跡は丹鶴城公園として整備されている。
丹鶴城公園には、新宮城跡として丹鶴姫の碑など歴史を感じるものが色々あるので探してみてはいかがだろうか?
1:入り口
2:丹鶴姫の碑
3:与謝野寛の歌碑
B. 水野家墓所
歴代城主とその親族の墓所
紀州徳川家の付家老で新宮領主の水野家歴代の墓所が水野家墓所 である。当地の墓所が築かれたのは、新宮城初代城主の水野重仲が 口却してまもなくである。重仲口却後、歴代城主や婦人の墓碑が 順次建てられたが、ここに本葬されているのは、江戸時代においては 第九代城主の忠央だけである。近世の歴代城主の墓碑がまとまった形で 現存している貴重な史跡で、現在は墓碑16基が並んでいる。
史跡としては新宮城跡と墓所合わせて一つなので、新宮城跡に訪れてから、寄ってみるといいだろう。
1:墓碑
2:入り口
3:不動堂
4:水野重仲の墓
C. 堀内新宮城
堀内氏の城、落城までの歴史
別名堀内氏屋敷の、堀内新宮城は現在の全龍寺である。新宮城は、 天正初期に堀内安房守氏善が築城した。氏善の時には、ほぼ牟婁郡全域 を支配した。慶長5年、関ヶ原の戦いでは、氏善は西軍につき伊勢方面 に出兵したが西軍の敗北により新宮に兵を戻した。それと同時期に 和歌山城主桑山一晴に新宮城を攻められ落城した。
現在は全能寺の境内が堀内新宮城跡だが、跡地としてはとても分かり辛いので一つの寺として訪れてみてはいかがだろう。
1:全能寺本堂
D. 新宮周防守屋敷
色々と謎が多い、行栄の館
新宮周防守屋敷は熊野七上綱の1人新宮周防守行栄の屋敷である 七上綱は有馬氏を併呑した氏善の勢力に圧迫されていたのだが、 七上綱のなかで最後まで氏善に抵抗して暗殺されているので、 氏善の館と並んで建っていたとは考えにくく、色々と疑問の残る 館である。元亀2年熊野地の新宮十郎行家の屋敷より本広寺に移った。
現在の本広寺には新宮周防守屋敷跡としての説明板はあるが、遺構はとくにない。 こちらも全能寺同様寺として訪れてみてはいかがだろう。
1:山門
2:説明版
3:本堂